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「ほんもの」と「まがいもの」-其ノ参(3)-

私の父である哲学者:加藤尚武のエッセイ「ほんもの」と「まがいもの」 今回は最終回です。 「ほんもの」と「まがいもの」-其ノ参-  「代用品」というまがい物を食べることに潔癖な拒否感を持つ人には、耐えられない毎日だったろう。 あるとき、父の友人のSさんが重箱を届けてくれた。もともと柔道家で、大きな体、大きな声の人だが、 口数は必要を超えることがなかった。 「これ皆さんで食べてください」というと、つむじ風のように立ち去って行った。 重箱の中身はぎっしりと並んだおはぎだった。砂糖の代わりの化学甘味料、小豆の代わりのいも類、 コメの代わりの雑穀類を一切含まない、まったく妥協をゆるさない本物の「おはぎ」だった。 谷崎潤一郎が永井荷風に、まったく非妥協的な本物のすき焼きを食べさせた話は、 テレビの番組にもなったが、我が家にとって、そのような非妥協性への挑戦の物語は、 Sさんの届けてくれたおはぎだった。 そのおはぎは考えられるかぎりのたくさんの人の口を楽しませたが、そのおはぎをふるまっている間、 私たちの家族は無上のしあわせを感じていた。 私は何度も「Sさんが、また来てくれればいい」と思って楽しみにしていたが、Sさんとは二度と会うことがなかった。 それは、敗戦を過ぎて後のことだったが、Sさんがずっと以前に餓死していたということが判明したからだ。 信じられないほど体が小さくなって亡くなったという。 「こんなものが食えるか」といって雑炊の茶碗を奥様に投げつけたという話は、我が家で何度も話題になったが、 代用品が快く喉を通ってくれない自分の業(ごう)をみじめな思いで見つめるという段階だってSさんの心にあったに違いない。 何かある一つの事柄に対して魂の純度を保つことなしによい人生を生きることはできないという教訓が、 そのために死ぬこともあるという付帯条件付きで、私の心に住み着いた。 --了--

「ほんもの」と「まがいもの」-其ノ弐(2)-

私の父である哲学者:加藤尚武のエッセイ「ほんもの」と「まがいもの」 前回の続きを紹介します。 「ほんもの」と「まがいもの」-其ノ弐- 「本土決戦」が近づいてくる。 父は、日本地図を広げて海岸線から一番遠いところが、 長野県の伊那地方であると判断して、 我が家にあったあらゆる名簿を調べて、 伊那地方に縁のある人を探し出して、 姉たちを湯浜から引き取って疎開させる計画を立てていた。 父は「長男はすでに軍人にしてしまったが、 下の三人の子どもは本土決戦になっても絶対に死なせない」と 決心していたようだ。 母も、その三人の子どもと伊那の山吹村(現在、高森町)に 疎開するのだが、 母には自分が出会うかもしれない最悪の事態を 「ありうること」として受け止めないではいられないという心性があった。 それは関東大震災に九か月の身重の身体で遭遇して、 新富町から芝公園あたりまで、 二キロメートルほどの道を 盲目の義母の手を引いて逃れたという経験が、 母の心性の深い基盤を固めてしまっていたからだと思う。 「ご飯を炊き上げてお櫃に移したところで地震が起こったので、 そのお櫃を持って逃げた」と母は話したことがあるが、 「恐ろしい目にあった」とは言わなかった。 片手で義母の手を引き、片手でお櫃を抱えて、 げた履きで倒壊家屋の中の道を歩くことは、 過度の緊張を母に強いたと思われる。 麻布の知り合いの家から芝公園の中の仮設診療所に移されて、 十二月に私の兄を生み落としている。 周辺の人間と比べると母は、本土決戦をはるかに本気で受け止めていた。 「本土決戦に備えよ」という総理大臣のラジオ演説について、 「本土決戦をいまどき決心すべきだなどと語っているのはおかしい」と 批判していた。 食べ物の質は、急速に悪くなっていた。 混ぜ物をふくまない白いご飯は、普通の家庭にはなかった。 砂糖をすこしでも持っているのは、 ヤミの取引など特別の工夫のできるだけの財力や 軍部とコネがある人たちなどだった。 --続--

「ほんもの」と「まがいもの」-其ノ壱(1)-

これから三回にわたって、私の父である哲学者:加藤尚武のエッセイを紹介します。 「ほんもの」と「まがいもの」-其ノ壱- 私は四人兄弟の末っ子であるが、 一人っ子のようにして過ごした数か月間がある。 兄は兵隊となり、姉二人は集団疎開で山形県の湯浜(ゆのはま)温泉に 行ったのだが、私は小学校一年生で、集団疎開の対象外だった。 母は、子どもが急に一人になってしまったさみしさを感じていたようだった。 私は、母を独占するという意外な機会を楽しんでいた。 「これ全部食べていいわよ」と母が私に渡したものは、 かなり大きく切った羊羹のようなものであった。 姉たちがいないので一人で食べられる。 私は、廊下の窓ガラスにもたれるようにして食べていた。 それは干し柿を固めて羊羹状にしたもので、たしかに美味しかったが、 さっぱりしすぎていてすこし物足りない。 母が、私の背中から声を掛けて「おいしい?」と訊くので、 振り返って「とても美味しい」と答えたら、 母は当惑した表情で「でもこれは本当の羊羹ではないのよ」といって 羊羹の説明をあれこれとしてくれた。 私は即座に「本当の羊羹」を思い浮かべることはできなかった。 母は、羊羹でないものを「羊羹だ」と だまして子どもに食べさせたという事態は、 絶対に避けなければならないと信じてたのに違いない。 「これは本当の羊羹ではない」ことを私にくわしく説得しようとしたのだった。 食べ終わって母を見ると目に涙をいっぱい浮かべていた。 その涙が私には長年の謎だった。 本当の羊羹を食べさせることのできない切なさを母が感じていたことは確かだ。 私の家では麦飯や代用食を食べることにしていたが、 代用食を本物だと言って食べることはなかった。 本物とまがい物の区別をしっかり意識することは、 母にとって生きる拠り所のようなものだった。 自分を他人に実際よりもよく見せる努力を、母はいつも軽蔑の視線で見ていた。 一生涯、化粧品を持たないままで死んでいった。 美しくないのに美しさを気取る人、 立派な文章が書けないのに借りものの言葉で肩をいからせた文章を書く人、 悪筆をごまかそうとして筆先を跳ね上げたりする人は、 すべて母の軽蔑の対象だった。 ラジオでの村岡花子の語り口は、丁寧過ぎる、 いわゆる「幼稚園言葉」のハシリで、上品を取り繕っているまがい物だった。 羊