「ほんもの」と「まがいもの」-其ノ弐(2)-

私の父である哲学者:加藤尚武のエッセイ「ほんもの」と「まがいもの」
前回の続きを紹介します。
「ほんもの」と「まがいもの」-其ノ弐-
「本土決戦」が近づいてくる。
父は、日本地図を広げて海岸線から一番遠いところが、
長野県の伊那地方であると判断して、
我が家にあったあらゆる名簿を調べて、
伊那地方に縁のある人を探し出して、
姉たちを湯浜から引き取って疎開させる計画を立てていた。
父は「長男はすでに軍人にしてしまったが、
下の三人の子どもは本土決戦になっても絶対に死なせない」と
決心していたようだ。
母も、その三人の子どもと伊那の山吹村(現在、高森町)に
疎開するのだが、 母には自分が出会うかもしれない最悪の事態を
「ありうること」として受け止めないではいられないという心性があった。
それは関東大震災に九か月の身重の身体で遭遇して、
新富町から芝公園あたりまで、 二キロメートルほどの道を
盲目の義母の手を引いて逃れたという経験が、
母の心性の深い基盤を固めてしまっていたからだと思う。
「ご飯を炊き上げてお櫃に移したところで地震が起こったので、
そのお櫃を持って逃げた」と母は話したことがあるが、
「恐ろしい目にあった」とは言わなかった。
片手で義母の手を引き、片手でお櫃を抱えて、
げた履きで倒壊家屋の中の道を歩くことは、
過度の緊張を母に強いたと思われる。
麻布の知り合いの家から芝公園の中の仮設診療所に移されて、
十二月に私の兄を生み落としている。
周辺の人間と比べると母は、本土決戦をはるかに本気で受け止めていた。
「本土決戦に備えよ」という総理大臣のラジオ演説について、
「本土決戦をいまどき決心すべきだなどと語っているのはおかしい」と
批判していた。 食べ物の質は、急速に悪くなっていた。
混ぜ物をふくまない白いご飯は、普通の家庭にはなかった。
砂糖をすこしでも持っているのは、
ヤミの取引など特別の工夫のできるだけの財力や
軍部とコネがある人たちなどだった。
--続--

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